築地本願寺3分法話

*令和2年3月で終了となりましたので、それまでのものがお聞きいただけます。

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『法語カレンダ』2023(令和5年)テーマは「宗祖親鸞聖人に遇う」です。

九月の言葉は石田慶和先生のお言葉です。

今日笑っていても、明日には涙を流して生きることもあるのが人生です。実際には自分が頼りにしていた人と別れたり、裏切られたり、

頼みとしていたものを失ったり、この世界、そしてこの自分に、「まこと」はありません。そのように煩悩に振り回されながら人生で怒りや

妬みをくり返していく、この愚かな凡夫に届いてくださるお念仏こそが、唯一の「まこと」なのです。

南無阿弥陀仏のお念仏は阿弥陀さまがこの私に至り届いてくださっているすがたです。そして、阿弥陀さまは、私たちの価値観を否定したり、私たちの行動に罪を告げたりはなさりません。自分の価値観に固執し、自分こそ正しいのだと、時に他者を傷つけるような

生き方をしている、そのような私の姿に涙されたのが阿弥陀さまです。

「まこと」のひとかけらもない私に、仏さまから差し向けられた「まこと」である南無阿弥陀仏こそ、まさしく人生の

依りどころであるといえます。

『月々のことば』

「われ称え

  われ聞くなれど

   南無阿弥陀仏

    つれてゆくぞ

     親のよびごえ」

 「私が称え、またその自分の声を私自身が聞くのだけれど、この南無阿弥陀仏は、お浄土に連れて行くぞといわれる親さまの喚び声に他ならない」ということです。

 私の称えるお念仏が、そのまま阿弥陀さまが私を連れていくぞといわれる喚び声である。そのことを明らかにされたのは親鸞聖人でした。

 私たちのお念仏「南無阿弥陀仏」の「南無」はインドの言葉の音を写したもので、漢語になおすと「帰命(する)」という言葉になります。浄土真宗の「帰命(する)」は、「必ず救う、我にまかせよ」「そのまま救う、我にまかせよ」とのご本願が私に届き、その本願招喚の順うすがたです。私が願うより先に、如来さまの方が願っていてくださる。それが浄土真宗の「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。

 私の称えるお念仏も、阿弥陀さまのご本願が、そして私にはたらきかけてくれるたくさんの縁があって、私が「南無阿弥陀仏」と申すことができているのでしょう。そうでなければ、この煩悩具足、罪悪深重の私が如来さまの名を称え、お念仏申すことなどできるはずもありません。私があれこれ考えるそのずっと前から、阿弥陀さまの方が私を願っていてくださった、そのことをいただくのがお念仏のみ教えです。

令和4年2月

「ふみはずしましたが

  気がつけば ここも

   仏の道でございました」

 榎本栄一さんの詩集『念仏のうた難度海』から採られています。

 「こまごまと自力で いちにちはたらいたが 気がつけば 大きな他力のなか」という詩があります。「気がつけば」の前の文には「自力」という言葉があります。そして後の文には「他力」という言葉があります。この詩を書かれた頃、榎本さんはまだ化粧品店を営んでおられたようです。

 在家のの者の道は、こまごまとしたことに気を遣いながら、一日を送っていきます。出家の者のように世間を離れて生きているわけではありません。しかしそうした日常のなか、お念仏申しながら生きていく私を、如来さまはそのまま摂め取ってくださっている。「大きな他力のなか」というのは、ふと気がつけばそのこまごまとした日常も、他力すなわち如来さまのはたらきのなかにあったといわれているのです。

 他力という言葉は、如来さまのはたらきということです。如来さまはいつも私に寄り添ってはたらいてくださる。それは、如来さまが如来さまとしての道を歩んでおられるということです。お念仏のみ教えはありがたいなぁと思います。私のこまごまとした日常はそのままお浄土参りの道であり、そのお浄土は参りの道はそのまま如来さまのはたらかれる如来

さまの道なのです。

令和4年1月

「きょうもまた

  光り輝くみ仏の

   お顔おがみて

    うれしなつかし」

 お内仏のご本尊を見てみましょう。ちょうどお顔のあたりから光が四方に延びて描かれています。数えるとたしかに四十八本ありますけれども、どうして四十八なのか。それは阿弥陀さまの願いが四十八あるからだといわれています。他にも説はあるそうですが、光は仏の智慧のはたらきを表していますから、四十八願を表しているというのがしっくりくるように思います。

 『仏説無量寿経』に示されている如来さまの誓願は四十八ありますが、なかでも第十二願は「光明無量の願」といわれます。光明を無量にそなえようと誓われた仏が阿弥陀さまです。それは、私がどのような世界にあっても必ずそのはたらきを届けてくださると誓ってくださっているのです。私たちはいつもその光にいだかれ、そのはたらきのなかに摂め取られているのです。

 お内仏のご本尊に向かって手を合わせると、その四十八本に延びている光が見えている。その光は、私を摂め取って捨てたまわぬ摂取不捨の光明であり、常に我が身を照らす光であったということを、「きょうもまた」という形で表しておられるのです。もちろん、「きょうもまた」は「お顔おがみて」にかかると考えられますが、「きょうもまた 光り輝く み仏の お顔おがみて」ということを成り立たせているのは、常に我が身を照らしたもう如来の摂取不捨の光明に他なりません。